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2005年08月26日

二つの見方・ベルクソン著 河野与一訳「哲学入門・変化の知覚 ー思想と動くもの1ー」

[読書のことなど]

Bergson-2どうも、自分で書いたことがあとから気になって、ちょっと考えてしまいました。

というのは、8月25日の「奈良小旅行」の中の一節の以下の文章の所です。

> 何でもそうなんですが、こういうものを見るときいつも僕は、そのものの中と一体化してみるという見方をしています。仏教美術に対しては、まったくのど素人です。でも、気持ちの中でその対象となるものの中に自分の心を入れて見る、一体化すると、何だかその時代を見ているというか、流れを感じるというか、感動します。

「一体化してみる」とは、どういうことなのか。
どうして、この様な考え方をしたかというと、以前に読んだ本の影響がかなりあるのではないかと思い出しました。そこで、家の本箱の片隅から次の本を探し出しました。

ベルクソン著 河野与一訳「哲学入門・変化の知覚 ー思想と動くもの1ー」(岩波文庫)の中の一節です。
「物を知るのに非常に違った二つの見方を区別する点ではぴったり合っていることに気が付く。第一の知り方はその物の周りを廻ることであり、第二の知り方はその物の中に入ることである。第一の知り方は人の立つ視点と表現(表象)に依存する。第二の知り方は視点には関わりなく符号にも依らない。第一の認識は相対に止まり、第二の認識はそれが可能な場合には絶対に到達すると云える。」(原文は旧字旧かな)

そして、次の文にしっかりと赤線が引いてありました。
「絶対運動と云う時には、私はその運動体に内面的なところ言わば気分を認め、私はその気分に同感し想像の力でどの気分の中に入り込むのである。」

もちろん、この文章と今僕が考えていることと全てが一致するとは言えないでしょう。
でも、普段、科学至上主義にどっぷり浸かって生活している僕などは、今回、こうした「第二の知り方はその物の中に入る」見方を思い出させてくれたのでした。